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 最近,「睡眠負債」という言葉がよく聞かれる。2017年には新語・流行語大賞に選ばれた言葉でもある「睡眠負債」とは,長年の睡眠不足が蓄積して「負債」のようになり,心身の健康に大きな悪影響を及ぼすことである。睡眠不足がよくないことなど,誰もが知っているに違いない。しかし,睡眠不足が身体ばかりでなく,脳や認知活動にどんな影響を及ぼすのかについては,意外に知らないのではないだろうか。また睡眠不足に対する事態や環境が改善されたという話は知らないし,有効な対策が立てられたとも聞いていない。
 今回は,改めて睡眠不足の恐さについて考えてみたい。

 2019年のOECDによる調査によると,アメリカ,イギリス,フランスなど,1日の平均睡眠時間が8時間を超えている国がある一方,日本は7時間22分と最短水準である。それにしても,平均して8時間以上眠る国があるとは信じがたいし,日本人も7時間半近く眠っているのなら十分ではないかと思ってしまう。

 しかし厚生労働省の調査によると,40代男性は「5時間未満」が11.3%,「5時間以上6時間未満」が37.2%,40代女性は「5時間未満」が10.6%,「5時間以上6時間未満」が41.8%と働き盛り世代は睡眠時間が短い。「睡眠で休養があまり取れていない」または「全く取れていない」と答えた人の割合が30代27.6%,40代30.9%,50代28.4%であり,やはり仕事や子育てに忙しい世代の疲労感が目立つ。

 睡眠不足は,健康上の問題ばかりでなく,人の認知機能にも重大な悪影響を及ぼす。睡眠が足りないと,集中力が途切れて仕事の質が落ちたり,エラーやミスが増えたりすることは誰しも経験あるだろう。これは,組織経営や経済・社会にとって大きな障害となりうる深刻な問題である。最近の睡眠の研究によって,睡眠不足に関して私たちが気づいていなかった重大な悪影響や問題が明らかになってきている。そのことについて見ていこう。働く人にとっても,職場環境を整える立場の人にとっても,よく知っておいて,改善策を考える必要がある。

 

〇睡眠不足と集中力の低下

 睡眠不足によって集中力が失われることはよく経験する。仕事に支障が生じるだけでなく,居眠り運転が原因の交通事故もしばしば発生している。居眠り運転というと,疲れからぐっすりとした眠りに落ちるというイメージがあるが,特に危険なのは,「マイクロスリープ」という現象であることが分かっている。マイクロスリープは,「眠りに落ちる」というよりは一瞬だけ意識が途絶えることである。この状態になると,「脳は外界の情報を取り入れなくなる。視覚情報だけでなく,すべての知覚がシャットアウトされる」(ウォーカー2018, p.165)のだ。その時には,反応速度が遅くなるのではなく,まったく反応しなくなる状態に陥るためきわめて危険なのである。

 慢性的な睡眠不足になっている人の集中力を調べた実験がある(ファン・ドンゲン他2003)。この実験では,参加者の睡眠と集中力の関係を測っている。実験参加者は,パソコンの画面かボタンが光ると,すぐにボタンを押すという課題に取り組み,反応の正確性と押すまでの速さの両方が測定された。この課題が,毎日10分,15日間連続で行なわれた。

 実験参加者は,全員8時間ぐっすり眠った後で,睡眠の条件別に4つのグループに分けられた。グループ1は,72時間,つまり3日間ずっと起きている。グループ2は,毎晩4時間だけ眠れる。グループ3は,毎晩6時間,グループ4は,毎晩8時間眠れる。
 実験の結果,睡眠が減ったグループでは,前述のマイクロスリープ現象が現われ,まったく反応しなくなることが生じた。この課題の結果をグループごとに見てみると,顕著な差が生じた。グループ4(8時間睡眠条件)では,何の問題もなし。ところが,グループ1(3日徹夜条件)では,24時間後にはミスは5倍にもなった。そして,グループ2(4時間条件)とグループ3(6時間条件)の2グループの結果がきわめて重要である。グループ2では,6日間経過後に,グループ1と同じくらいのパフォーマンスの低下が生じ,ミスが5倍に増えてしまった。グループ3ではどうだろうか。6時間睡眠を10日間続けると,グループ1の人たちが24時間眠らなかった後と同レベルまでパフォーマンスは低下したのだ。その後低下のペースは止まらずに,ミスは増え続けていった。
 6時間睡眠というのは,社会人としてまったく普通の数字だろうし,4時間睡眠で頑張っている人もたくさんいる。そのような人たちのパフォーマンスがここまで低下するとは,本人たちも自覚はないだろうし,誰も予想していないだろう。それだけ深刻な問題と言える。

〇時差ボケは恐い

 時差ボケとは,タイムゾーンが異なる地域に移動することで時間差に適応できず,結果として睡眠不足に陥る状態である。時差ボケが健康に良くないことは,多くの人が経験上知っているが,具体的にどんな問題があるのかはよく知らないのではないだろうか。外国へ行ったり帰国時に経験する時差ボケについては,頭がハッキリしない,なんとなくダルい程度にしか思っていない人が多いのではないだろうか。実際には,時差ボケの悪影響は小さくないようだ。

 一年中時差ボケを体験しているのが,国際線の飛行機の客室乗務員であろう。彼らの睡眠と健康に関する総合的な研究によると,健康リスクが高まっているのは当然としても,それ以外に認知能力についても悪影響が生じている。まず脳の学習と記憶に関する部位が,実際に小さくなっていたという。これは,時差ボケのストレスで,脳細胞の一部が破壊されたからだそうである。さらに,客室乗務員は短期記憶機能が大幅に低下し,同じ年代の人と比べて物忘れがかなり多いという。

 パイロットや客室乗務員だけでなくシフト勤務の労働者を対象とした研究によると,彼らは,ガンやⅡ型糖尿病のリスクが平均よりもかなり高いことが分かっている。飛行機の乗務員の時差ボケはわかるが,シフト勤務者もまた一種の時差ボケにかかっているという点が見逃せない。

〇寝不足は酔っ払いと同じ

 こんな実験もある(ウォーカー2018)。実験参加者は,2つのグループに分けられた。1つは,血中アルコール濃度が0.8%になるまで飲酒し,もう1つのグループは一晩中起きている。その後に集中力を測定する課題を行なった。実験結果は衝撃的だ。一晩起きていたグループと酔っ払いのグループでは,ミスした回数がほぼ同じだったのだ。つまり長時間の睡眠不足では飲酒と同じくらい集中力が低下することになる。飲酒運転の取り締まりは厳しいが,睡眠不足運転に関してはあまりに寛容ではないだろうか。仕事の上でも同じだ。酔っ払って仕事をすることは許されないが,睡眠が足りない人に対しては,せいぜい「頑張れ」と言う程度だろう。

他にも,睡眠不足は次のような影響を及ぼすことがわかっている(バーンズ他2011など)。

 ・リスク追求的になり,ハイリスク・ハイリターンな決断を行なうことが多くなる。
 ・不正や非倫理的な行動が多くなる。
 ・他者を信頼しない傾向が強くなり,職場の人間関係が悪くなる。

 ではいったい,何時間ぐらい睡眠をとれば良いのだろうか?アメリカの睡眠研究者の学術団体が意見の一致をみたところでは,健康な大人は,毎日最低7時間の睡眠を常に確保することが,心身の健康を保つために必要とされている(ワトソン2015)。

 問題は,ほとんどの人が,自分の睡眠不足に気づいていたとしても,睡眠不足が原因で集中力やパフォーマンスが落ちているとは気づかないことだと専門家は指摘する。ということは,自覚や個人的な対処だけでは,睡眠不足問題はなかなか解消しないのである。公的な政策あるいは職場での適切な対処が必要なのである。

参考文献

・Barnes Christopher M., John Schaubroeck, Megan Huth and Sonia Ghummand, 2011, Lack of Sleep and Unethical Conduct, Organizational Behavior and Human Decision Processes, Vol.115, pp.169-180.
・マシュー・ウォーカー(桜田直美訳),2018,『睡眠こそ最強の解決策である』SBクリエイティブ
・Van Dongen, Hans P.A., Greg Maislin, Janet M. Mullington and David F. Dinges, 2003, The Cumulative Cost of Additional Wakefulness: Dose-Response Effects on
Neurobehavioral Functions and Sleep Physiology From Chronic Sleep Restriction and Total Sleep Deprivation, SLEEP, Vol.26, No.2., pp.117-126.
・Watson, Nathaniel F. et al., 2015, Recommended Amount of Sleep for a Healthy Adult: A Joint Consensus Statement of the American Academy of Sleep Medicine and Sleep Research Society SLEEP, Vol.36, No.1., pp.843.844.