2020_11_660.jpg

知識を伝える難しさ

自分がよく知っていることを,他の人に説明しようとして苦労したことはないだろうか。特に,知っているはずの予備知識を相手が持っていないために,自分が伝えたかったことがうまく伝わらなかったということがないだろうか。

 私も覚えがあるが,教育やコーチングに携わる者がよく経験することであり,何か自分が熟知している分野について,他の人もその分野に関して自分と同じようなバックグラウンドを持っているとか,その分野についてある程度は知っているだろうと考えてしまうことがある。これが「知識の災い」(curse of knowledge)と言われる認知バイアスである。

 知識の災いは,専門家が素人にうまく教えることができない原因の1つであり,「専門家の呪い」などと言われることもある。

知識の災いの例

 経営陣の言葉は従業員や顧客などさまざまな人のモチベーションにも影響することがあり,特に重要である。しかし,社長が会社の目標や戦略を従業員に熱心に語っても,なかなか伝わらないことがあるだろう。社長には,自社のビジョンや戦略が明確に見えているのかもしれない。しかし,従業員も同じように見えていると期待しても無理である。そこでうまく伝えられずにもどかしい思いをしたりする。

 一般読者を対象にしているはずの新聞でも起こりうる。最近菅首相が所信表明演説で「2050年までに温室効果ガスゼロ」という目標を掲げたが,それに関連する新聞やマスコミの記事の中で,「ESG投資」「カーボンニュートラル」「カーボンプライシング」といった専門用語が解説なしに使われていることがあった。これを書いた記者はよく知っているかもしれないが,読者も同程度の知識をもっていると考えてしまったのではないだろうか。だとしたらまさに知識の災いに陥っている。 

知識の災い実験(1)

 知識の災いがよく現われている実験がある。ハース兄弟の著書『アイデアのちから』で紹介されている,心理学者のエリザベス・ニュートンが行なった次のような面白い実験である。

 彼女は,実験参加者を2つのグループに分けた。第1グループは「叩き手」で,第2グループは「聴き手」である。叩き手は,「ハッピーバースデイ」とか「星条旗よ永遠に(アメリカ国歌)」などの皆がよく知っている25曲から1曲選んで,聴き手に伝わるようにテーブルを叩いてリズムを刻んでいく。聴き手は,それが何という曲かを当てるという単純であるが面白い実験である。

 実験に先立ち,叩き手は,自分が叩いて伝えようとする曲のうち,聴き手は何曲くらいわかるだろうかという予測をした。叩き手たちの予想値の平均は50%であった。半分くらいはわかるだろうとの予想である。実際にはどうだったであろうか。聴き手は合計120曲を聞いたが,正しく曲名を言うことができたのは,何とたったの3曲,わずか2.5%しかなかった。

 叩き手と聴き手とは別の第3のグループにも役割があった。かれらは叩き手が叩く120曲の曲目を知った上で,聴き手が何曲わかるかを予想した。第3グループの予想も,叩き手と同じく50%であった。この予想も大きくはずれたわけである。

知識の災い実験(2)

 心理学者のハインズの実験も知識の災いをよく物語っている。彼女は携帯電話の販売会社で実験を行なった。ベテランの販売員に,携帯電話を今まで使ったことがない人が使い方を習得するのにどのくらい時間がかかるかを予想してもらった。すると,携帯電話未使用者が習得までに要した時間は,ベテラン販売員の予測のほぼ2倍だったのである。次に,別の使ったことがない人たちと少し使ったことのある人たちに同じ質問をした。するとどちらの人たちもほぼ正しく,未使用者の習得に必要な時間を予想できたのである。操作を知らない人の状態を,同じような立場の人は理解できても,詳しい人には理解しがたいのである。

知識の災いの原因

 知識の災いは前々回触れた透明性の錯覚や,前回のスポットライト効果と共通の原因がある。私たちは皆,自己中心的な世界に生きており,自分の仕事,趣味あるいは意見や感想など自分が行なっていたり考えたりしていることに一番関心を持っていて,注意を払っている。そこで自分が知っているということが基準(アンカー)となって他者の心を判断するので,自分が知っていることを他者も同様に知っているだろうと考えてしまうのである。

教師は,生徒が無知の状態を脱して「それは知っている」という状態になるようにしなければならないが,生徒の無知の状態を想像することがなかなかできないのである。

 このように,「いったん何かを知ってしまったら,それを知らない状態がどんなものか,うまく想像できなくなる」(ハース)のだ。そこで,知識を持っている人は,知識を持っていない人を理解することが難しくなり,伝えるのも困難になるのである。

 ニュートンの実験では,叩き手は自分の心の中には曲のメロディがはっきりと刻まれている。それを間違いなく,テーブルを叩くことで表現できたと思っている。そこでほぼ確実に伝わるはずだと考える。ハインズの実験では,携帯電話の操作方法を熟知しているベテラン販売員は,それができなかった時の状態をまったく思い出せないのである。そこで,今現在の使い方を熟知している状態を基準として考えて,使ったことがない人でも習得は簡単だと思ってしまう。

知識の災いへの対処法

 『アイデアのちから』によると,何らかのアイデアが人々の心に訴えかけ,記憶に残り,実行される,つまりアイデアが成功するためには次の6つの原則が必要である。文脈は異なるが,これらは知識を持っている者が持っていない者に情報を伝える際の知の災いの影響を小さくする方針としても有効であろう。

 それらは,(1)単純明快である,(2)意外性がある,(3)具体的である,(4)信頼性がある,(5)感情に訴える,(6)物語性がある,である。

 要するに,自分の知っていることを抽象的な言葉で伝えるのではなく,具体的でストーリー性があり,また図や写真を用いることで感情に訴える等々の工夫をすれば,相手に感心を持ってもらえて,相手の記憶に残るようにできる,つまり情報伝達がうまくいくのである。そうすれば知識の災いそのものを消すことはできないが,その影響を軽くすることはできよう。

 このようなテーマを扱っている私自身も,「アンカリング効果」なぞ,以前にしばしば書いたことだから読者の皆さんは知っているはずだと,読者の知識を前提にしてしまうことがあり,知識の災いに陥っているのではないかと忸怩たる思いがある。ハースの6原則はなかなか難しいところもあるが,心に留めなければいけないと思う。

参考文献

チップ・ハース,ダン・ハース(飯岡美紀訳),2008,『アイデアのちから』,日経BP

Hinds, Pamela J., 1999, The Curse of Expertise: The Effects of Expertise and Debiasing Methods on Predictions of Novice Performance, Journal of Experimental Psychology: Applied, Vol. 5, No. 2, pp.205-221