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総務省のICT48の募集に関する不適切ツイートが炎上したニュース。いかにも日本で起きそうな出来事だと思いながら聞いた。募集要項の年齢制限が13歳〜24歳、身長、体重、全身写真の提出。モデルやアイドルの募集と間違えるような絶句ものの募集要項だが、この件から、海外と日本の、女性に対する意識の違いついてご紹介したいと思う。

ICT48は、ICTビジネス研究会(一般社団法人テレコムサービス協会)が行う「ICT女子プロジェクト」の一環で募集された。このプロジェクトは、ICT女子と企業・団体の交流を深め、女性ならではのアイディアで新ビジネス・サービスを創造することでICT利活用を推進することが目的だという。そして、ICT48は、3名×16チームの構成で「ICTビジネスモデル発見&発表会」へ参加することが主な活動内容だという。

いかにもAKB48や「~女子」を意識したネーミングから想像する女性像と、実際に新規ビジネスを創造し、起業する女性像とに大きなギャップを感じずにはいられない。今回の総務省のツイート炎上で、多くの方が募集要項を中心にICT女子プロジェクトやICT48に疑問を持ったことが分かり、ある意味安心したが、一方で、このプロジェクトやそのマーケティングに違和感のない一部の方によってここまで進められたことも事実である。

教育過程から見るシンガポール人の異性に対する意識

女性に対する意識について、このように多くの人にとってはイエローカードだと思えるようなことが、一部の人には違和感なくできてしまうということがさまざまあり、ここシンガポールでも、シンガポール人を困惑させてしまうことがある。

シンガポール人の異性に対する感覚は、日本人のそれとは全く異なる。シンガポールの教育制度には、全国共通の小学校の卒業試験、「Primary School Leaving Examination(PSLE)」というものがあり、その卒業試験の点数がその後の学歴に大きな影響を及ぼすため、幼稚園から塾通いをすることが珍しくないほどに教育環境が加熱している。

例えば幼稚園児が、英文法のプリントを学習したり、算数の文章題を解いたりしている。一般的に言語能力が発達するタイミングが男子より女子の方が早い上に、主要科目となっている英語、母国語、算数、理科の4教科のうち2教科が言語系ということもあり、男子より女子の方が優秀に見える時期が続く。

小学校では、学力別にクラス分けされるケースが多い。2年生からは多くの学校で主要教科の総合点でクラス分けされるため、低学年から成績によって優劣を感じるような仕組みになってしまっている。期末テストは極めて厳正で、その厳正さ故に、子供たちもシリアスに受け止める。英語や母国語の期末テストは、プレゼンテーション、会話、音読、リスニング、文法、語彙、読解、ライティングと多岐にわたる。

算数は、日本人が思い浮かべるテスト内容以外に、実技がある。実際に物の長さを定規で測れるか、重さの目安がわかっているかなどだ。担当教師が採点すると公正な判断ができないという懸念から、普段あまり接しない教師が採点したり、二重三重の採点確認をするほどの厳正ぶりだ。そのような雰囲気でテストが行われることもあり、教師も、保護者も、本人も、テストの結果を厳粛に受け止める。

小学校高学年ごろになってやっと、男児がぐんと伸びてきて差がなくなってゆく。低学年の男子はやんちゃであり、成績もイマイチ。そんな出来上がったイメージを、高学年に入って少しずつ挽回する。しかし、高校を卒業すると、今度は男子には兵役が待っている。一緒に学んだ女子は、先に大学を卒業し、就職し、先輩風を吹かせる。女性が強くなる素地が、こちらの社会の背景にはあると思う。そんな中での、接待要員の要請。シンガポールの女性が困惑するのは当然である。

「日本では、女性が飲み会に参加してビールを注ぐのは義務なの?」

先日、知人が、日系企業で働くシンガポール人の女性から相談を受けた。「最近会社が日本のメディアから取材を受け、その晩メディア会社の人とネットワーキング飲み会が開かれ、日本人マネージャーから若い女性は飲み会に参加するように言われた。こういったことは日本では一般的な文化なのか?」と。

私だったら、「残念ながら、そうだろう」と答えるだろう。日本人マネージャーにヒアリングしていないので、その要請の意図は分からない。しかし、華が欲しいという意図だったと解釈すると、ビジネスの成果をあげるために活躍する女性像と、接待要員として華を添える女性像のギャップに悶々としてしまう。日本人である私でさえ大きな違和感を感じるのだから、シンガポール人からしたら受け入れがたいものを感じるだろう。

私が新卒で入社したコンサルティング会社での初めてのプロジェクトでの、クライアントとの初めてのお酒の席を思い出した。お店に出向く道中、上司が私にアドバイスをしてくれた。「お前は絶対にお酒を注ぐな。注いだ瞬間に、日頃の努力はすべて無駄になる」。

クライアントは、日本では有数の大企業。その中でも保守的な企業だった。90年前半、保守的な企業でなくても、女性がビールを注ぐのは当たり前だったと思う。上司のアドバイスがなければ、私もクライアントにビールを注いでいただろう。大学出たてで、社会人として経験が浅く、しかも女性である私がコンサルタントとして仕事をしなければならない立場であるのに、保守的な日本の文化の中にいるクライアントにお酒を注いだら、その瞬間に、その立場にいることを認めてもらうことが、より難しくなるという意味だと理解した。

それから何年もたった2000年ごろ、日本に駐在していた同僚のアメリカ人女性から、日本での女性の行動について相談されたことがある。「同じプロジェクトで働く女性が皆にお酒を注いでいることに気がついた。女性がお酒を注ぐのは日本では当たり前の行動で、そうしなければならないのか?」「わたしは、そういうことはやりたくないけれども、やらないと受け入れてもらえないのか?」と。

私は「日本では文化や宗教の理由によってそうしなければならないということではなく、その日本人女性は、恐らく前職で期待された女性像に近づくよう努力した結果、そのような立ち振る舞いが身について、それが今や自然な行動になっただけだと思う」と解説した。また、女性が笑顔でさっとお酒を注ぐことを期待される、このような女性に対する意識は徐々に変わりつつあるものの、まだまだ時間がかかりそうだとも付け加えた。

そして、今回のICT48に関するツイート炎上。90年代と比較して女性に対する差別的な意識は薄らいできたと思われるものの、未だに、女性蔑視につながる行動や表現に違和感を持つことのない集団が存在する。意識というものはやっかいで、持っている意識は何かのきっかけがないと見直されたり、変化したりすることがない。自分にとって違和感のない意識も、場所が変われば仰天されることも多々ある。

グローバル展開を進めるにあたっては、自分の意識が(その国で)常識なのかどうかを常に疑ってかかるくらいの姿勢で臨むことが無難だ。そして、女性蔑視ではないかと疑われる日本企業のイメージが、少しでも上向いてほしいと思う。