日本人集団主義説はどこから来たのか?

 前回,前々回と日本人集団主義説に対する実証的観点からの批判を紹介してきたが,そもそも日本人集団主義説の由来はどこだろうか? 明確な根拠がないのに,どうして通説・常識として多くの人が受け入れてしまったのだろうか? このような自然な疑問に答えてくれるのも,今まで頼ってきた高野氏の著作である。今回は彼の批判にもとづき,日本人集団主義説をどうして多くの人が信じるようになったのかを考えてみよう。

 まず,日本人集団主義説の由来を見てみよう。「日本人は集団主義である」とは明確に述べてはいないものの,内容は明らかにそのように主張している最初の書籍は,どうやら1888年にアメリカで発行されたパーシヴァル・ローエルの『東洋の魂』(原題:Soul of the Far East)であるようだ(邦訳は川西瑛子訳,公論社1977年)。同書には,日本人は個性がない,皆同じに見える,創造性もないといった表現が多出する。また,日本人には「言葉の順序を全く逆にしてしゃべること,書く時には筆を右から左に動かすこと,本は一番最後の頁から読むこと」(訳書10頁)が特徴だといった主張も見られるし,「この国の人々も人類であり,この奇矯さにもかかわらず,また彼らも人間である」(訳書11頁)などという人種的偏見や差別に満ちた,今ならマスコミやSNSで袋叩きにされそうな一種のトンデモ本なのであるが,ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)に来日を決心させたなど,多くの人に影響を与えた本である。

 さらに一層強い影響を及ぼしたのが,戦後すぐに発刊されたルース・ベネディクト『菊と刀』(長谷川松治訳,1948,社会思想研究会)である。この本は,戦時中の日本研究から生まれた書物であり,アメリカの研究者ばかりでなく,敗戦後打ちひしがれていた日本人にも強く訴えるものがあり,当時の日本人はこの本の内容を高く評価して受け入れていったのである。

日本人集団主義説を支える認知バイアス

 日本人集団主義説は,明確な根拠がない主張であるにもかかわらず多くの人々に受け入れられ,あたかも真理であるかのように考えられてきたのはなぜなのだろうか? 高野氏によると,そこには,このブログでもしばしば取り上げてきた認知バイアスが関わっている。認知バイアスの強さと怖さが表われた例といってもよい。

基本的帰属錯誤

 まずは,基本的帰属錯誤というバイアスがある(対応バイアスと呼ばれることもある)。人は,行動の原因を探すときに,原因が人の内面にあると考えるのか,それとも状況や環境に大きく依存していると考えるのかの二通りある。基本的帰属錯誤とは,行動の原因を考えるときに,自分のことについては状況や環境を考慮するが,他者の行動の原因については状況のような外部要因を軽視し,その人の内面の特性や人間性に由来すると考えてしまうバイアスのことをいう。

 たとえば戦争時に国民の一致団結が勝利に必要であると皆が考え,そのように行動することはどの国においてもどの時代にもありうる。戦争という状況がそうさせるのであって,必ずしも集団主義という特性があるからとは限らない。すなわち,戦争中の一致団結を見て,そこからその人々は集団主義であるという結論は出せないはずである。ところが,基本的帰属錯誤があると,そのように一致団結するのは,その人たちが集団主義という特性や考え方をもっているに違いないと見なしてしまうのである。第二次大戦での日本の挙国一致体制を見たアメリカ人が,状況や環境を無視して日本人は集団主義であるという結論を出したのは,基本的帰属錯誤という認知バイアスが大いに働いているからだと考えられる。

確証バイアス

 確証バイアスとは,自分の考えや仮説を肯定する証拠ばかり集めるという認知バイアスであり,かなり強固であることがわかっている。たとえば,血液型と性格の関係を信じている人は,たとえばA型の人は几帳面であると信じると,A型で几帳面な人の例ばかりを集めるが,その反対のA型であって几帳面ではないというケースには目が行かなくなる。

 確証バイアスがあるために,いったん日本人集団主義説を信じると,それによく当てはまる例ばかりが目につくが,それに反する例は無視しがちになる。そこで,いったん日本人集団主義説を信じると,ますます強く信じるようになるのである。

外集団等質性効果

 自分が属していない,よく知らない集団(外集団)のメンバー同士はよく似て見えることがある。それを外集団等質性効果という。顔認知の研究によると,自分が属していない人種の人々の顔は見分けがつきにくい,つまりよく似て見えるということがある。日本に来てわずか1年で分厚い日本人論をものしたローエルも,日本に来ることなく日本人論を書いたベネディクトも,日本人が個性に乏しくみな同じに見えるといった印象を抱いていたが,それは外集団等質性効果も一因であると考えられる。日本語の理解も不十分であったろう。すると,ますます日本人は個性がなく集団に埋没して見えることになる。

利用可能性バイアス

 利用可能性バイアスとは,よく聞く,すぐ頭に浮かぶことほど,実際に生じる確率が大きいと思ってしまうことである。そこで,マスコミやSNSでよく見た,最近自分が実際に経験したといったことがらはよく生じると考えてしまう。たとえば,少年犯罪が詳しく報道されるとより記憶に残ってしまい,実際よりも少年犯罪の発生確率は大きいと見てしまうというバイアスである。

 利用可能性バイアスによって,日本人集団主義説あるいはそれに当てはまる事例を多く聞けば聞くほど,その説は信憑性が大きいものとなる。

状況の力

 いったん通説となると周りの多くの人が日本人集団主義説を信じていることになるし,それを肯定する書籍も多くなる。そしてそれについて深く考える一部の専門家を除いて,ふつうの人は周りに合わせてしまう。つまり,日本人集団主義説をそのまま受け入れてしまうのである。そこに利用可能性バイアスや確証バイアスが作用すると,自分で当てはまる事例を見つけてくる,というより当てはまる例が自然に頭に浮かぶことになる。そこでますます自信をもって通説を信じることになる。

 たとえもともと自分はあまり信じていなかったとしても,「日本人は集団主義」と多くの人が考えていたら,それが状況・環境となり,「周りの人は集団主義」であると考えるようになることはありうる。

 誤解を避けるためには,通説や周りの意見にただ従うのではなく,批判的に見て自分で考える力が求められる。

 

参考文献

高野陽太郎2008『「集団主義」という錯覚-日本人論の思い違いとその由来-』新曜社

高野陽太郎2017.8.8「日本人は集団主義」という幻想 じつは根拠なんてなかった...?」

 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/52478

高野陽太郎2019『日本人論の危険なあやまち-文化ステレオタイプの誘惑と罠-』ディ スカヴァー携書