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新型コロナウイルス蔓延と非合理的行動

 前回に引き続き,「見たものすべて」という性質が判断を狂わすことを考えてみよう。現在の新型コロナウイルス感染の流行によって,人が非常時に合理的に判断し行動するのはなかなか難しいことが,あらためて露わにされたのではないだろうか。

 「自宅に居よう」と呼びかけられているにもかかわらず,車で出かける人が多くて渋滞が起こった観光地や,サーファーなどがたくさんいる海岸など,相変わらず危機感が薄い人は多いように思える。自粛要請を無視して,営業を続けるパチンコ店や飲み屋もある。毎日のように「3密」に近い状態のスーパーに買い物に出かけたり,つい飲み会を開催したりする人もいる。もちろんすべての人がこんな非合理的な行動をとってしまうわけではなく,適切に行動を自粛する人が大多数であるが,それでも非合理行動は目にあまる。

 さらに悪いことに,PCR検査で陽性となった看護師2人を勤務させたために,クラスターとなった病院,大人数の飲み会を開催したため,参加者から多数の感染者を出した病院関係者など,医療従事者ですらきちんとリスク認識していないのが現状である。

「見たものすべて」が生みだすバイアス

 前回は,現在の新型コロナウイルス蔓延に際しての私たちの判断や決定の根拠が偏っていて,私たちはつい自分が見たもの,経験したこと,知っていることだけで判断しがちで,見えないことにまで考えがおよばないという事例を,買い占め騒動と感染検査の妥当性について見てきた。人のもつこのような性質を,ダニエル・カーネマンは「見たものすべて」(英語ではWhat You See Is All There Isの略でWYSIATIと言われる)と名付けた。すなわち,人は,手元の情報だけを重視し,手元にないものを無視するのである。また同様に,人には「見たいものだけを見る」という性質もある。世の中を客観的に広く見ていると思っていても,案外,私たちは自分の信じていることや自分の知識の再確認となる情報しか見ていないものなのだ。

 もう何回もくり返して行ってきたことであるが,人は判断や決定に際して,直感や感情に基づくシステム1と理性や合理性に基づくシステム2の両方が働く。システム1はしばしばさまざまなバイアスを生み出す元であり,多くの場合,システム2による冷静な対応が求められる。しかし,事態があいまいであったり,情報が不十分である場合にはシステム2は十分には働かないことがわかっている。その場合にはシステム1の判断が前面に出てくるが,それにはバイアスが伴いやすいのである。

 「見たものすべて」の範疇に入るが,システム1が原因となっている引き起こされるバイアスで,目下の状況で見られる例をいくつか取り上げよう。

利用可能性バイアス

 私たちはものごとが生じやすいかどうかを,頭にすぐ浮かぶ例があるかどうかで判断する。そこで自分の経験(正しくは経験の記憶),身近な人から聞いた話,新聞やメディアの記事,SNS情報で最近見聞きしたことがらに関しては,印象に残りよくあると判断する。たとえば,少年犯罪はメディアに取り上げられることが多く,すると少年犯罪は増えていると判断しがちだし,あおり運転が盛んに取り上げられると,すごく増加していると考えてしまう。大きな地震の直後に,非常持ち出し品や地震保険の売上が急増するのも同じだ。

 新型コロナウイルス蔓延に関しても,トイレットペーパーや米などがスーパーの棚から姿を消しているのをメディアで見ると,それらは品不足なのだとすぐ思ってしまう。外出自粛の要請に応えていない観光地や商店街の人混みを見ると,多くの人が出歩いていると思ってしまう。

 このような利用可能性バイアスに「見たものすべて」原理が働いている。台風や大雨,地震では,被害そのものや身近に迫っていることが目に見えてわかるが,ウイルスは目に見えない。そのために恐怖心が湧きにくく,どこか人ごとだと思ってしまい,外出自粛要請もそれが原因で守りにくくなることがある。最近,有名芸能人2人がコロナウイルス肺炎で亡くなったことで,新型コロナウイルスのリスクを身近に感じられるようになったかも知れない。

 ベラルーシの大統領は,感染拡大中もアイスホッケーに興じていたが,「アイスホッケーは中止すべきではないか」というメディアの記者の質問に対して,「中止する理由がわからない。ウイルスが飛んでいるのが君に見えるのか。私には見えない」と言っていた。まさに,「見えないものは信じられない」というバイアスの代表例である。

 繁華街に繰り出す若者にインタビューすると,「自己責任だから大丈夫」という答が返ってくることがある。この発言は,自分が感染して他者に移す可能性ということを考えていない,自分以外の人の存在が目に入らないことを示している。あらためて冷静に,見えていること以外に大事なことがあることを考えなければならない。

正常性バイアス

 何か非常事態が生じると人はパニックになるというのが通説であったが,そうとは限らず逆に妙に冷静になってしまい,逃げるなどのすべき行動をしないことが分かっている。これを「正常性バイアス」という。たとえば,東北地方太平洋沖地震や西日本豪雨の時には,大津波警報や避難情報が発表されているにもかかわらず,「大したことはない」とか「自分は大丈夫」と考えて避難しなかった人がいることがわかっている。

背後には,今まで経験したことがないから想像がつかないということがある。今まで大丈夫だったから,今回も平気だろうとか,自分のまわりにやはり避難しない人がいると,その行動に同調してしまい,同じく避難しないことがある。

 目下のコロナウイルス蔓延でも同じことが言えるだろう。繁華街や観光地に平気で出歩く人は正常性バイアスにとらわれているのではないだろうか。外国からの入国者をなかなか制限しなかったり,非常事態宣言をなかなか発出しなかった政府や政治家も同じなのではないだろうか。

 確かに日本では,新型コロナウイルスのような事態は近い過去には経験がない。過去の経験がないので見えずに,適切な行動や対策ができないのかもしれない。台湾などSARS,MERS といったコロナウイルス感染症を経験した国では,当時の経験に基づき,新型コロナウイルスに対しても検査や隔離,外国人の入国制限措置などのかなり徹底した対策を早い時期から行なってきた。

近視眼性

 人は,目先のことには集中して気にするが,少し遠い将来のことになるとおろそかにするという傾向がある。これを近視眼性という。遠い将来のことを目先のことよりずっと軽視することを意味する。

 感染拡大防止対策として,外出自粛や3密回避が要請されているが,そうなると商店や飲食店は売上の減少に直面し,へたをすると経営自体に影響がおよぶ。それを理由に営業を続ける店などが初期にはよく見られた。

 確かに営業を1ヶ月休むことは大きな収入源になり,経営を左右する影響をもたらすことになろう。しかし,休業期間が長くなればなるほど影響は大きくなる。したがって,目先の損失はなんとかしのぎ,長期的な損失を避けることが賢明である。店が開いてなければそれだけ外出する人も減少し,感染拡大防止に役立つからである。ただしこの場合には,休業補償などの政策的対応が必要であろう。休業による被害を店側にだけ負担させるのは酷である。感染対策と経済対策のどちらを重視するかについては政府内でも見解の不一致があったようだが,2つの対策は一体であると考えた方がよい。感染拡大を防止して早く終息させることが結局は,経済にもプラスとなるのだ。それなのに経済が悪化することを恐れて緊急事態宣言が遅れたとすれば,政治家や政策担当者も近視眼性から逃れていないのである。

 新型コロナウイルス蔓延という過去に経験のない事態に直面すると,システム2が十分に働かずにシステム1の持つ「見たものすべて」という性質が悪い方向で現われてしまうのである。

参考文献

・ダニエル・カーネマン, 2012, 『ファスト & スロー』ハヤカワ文庫