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経験は必ずしもアテにならない

 前々回は「経験」の持っている優れた点について見た。いいことずくめに見えるのが「経験」であるが,経験には見えざる落とし穴もある。私たちは自分が経験したことは,現実をそのまま捉えていると考えがちだ。そうではないことは,前回見たように,経験の記憶は持続時間を無視したり,経験のもっとも印象的なことや最後に経験した善し悪しに左右されるのが一つの証である。経験をアテにしすぎてはいけないのだ。私たちは,経験によって現実をそのまま捉えているのではなく,いくつかのフィルターを通して見ているのである。今回はそのことを見ていこう。 

「見たものすべて」

 繰り返しになるが,私たちは自分が見たもの,経験したこと,知っていることだけでものごとを判断しがちである。見えないこと,経験していないことにまで考えが及ばないのだ。ダニエル・カーネマンはこの性質を「見たものすべて」と名づけた。「見ていること」=「存在していること」なので,「見ていないもの」は「存在しないもの」と同義である。すなわち,人は,手元の情報だけを見てものごとを判断し,手元にない情報を無視してしまうのである。カーネマンは,「見たものすべて」は人の認知の最大の欠陥であると言う。 同様に,人には「見たいものだけを見る」という性質もある。世の中を客観的に広く見ていると思っていても,案外,私たちは自分の意見や知識の再確認や裏付けとなる情報しか見ていないものなのだ。「自分の見たことしか信じない」と言う人もいるが,その人には「自分の脳みその存在を信じていないのですか?」と尋ねてみよう。 

経験の落とし穴(1)-結果バイアス

 経験の持つ欠点は「見たものすべて」が原因となることが多い。

 まず第1に問題となるのは「結果バイアス」と言われるバイアスである。これは,何らかの戦略や行動によって「成功」や「失敗」という結果ばかりを重視して,その決定プロセスを無視してしまうことである。特にビジネスに関しては,戦略や対策がうまくいったか否かという結果ばかりを気にすることはよくあるだろう。

 なぜ結果ばかり見てしまうのか? 答えは簡単で,結果が見えやすいからである。それに対してその結果を生み出したプロセスは見えにくい。人は見えるものにしか反応しないのである。さらに結果の中でも成功は失敗よりも目につきやすい。自分にとって都合の良いことがらについては特に目にとまりやすいのである。

 結果バイアスにはいくつかの問題がある。結果は偶然の産物かもしれない。偶然生じることを軽視する傾向も人が持っているバイアスの一つであるが,ここではそれに深入りはせず指摘するに留めよう。偶然が関わるとすれば結果をコントロールすることは難しくなるが,それに比すればプロセスははるかに容易にコントロールできるはずである。「結果OK」という言葉があるが,結果がOKだと,なぜその結論が出されたのかとか,なぜそのような行動をとったのかというプロセスは忘れられることが多い。

 ソイヤーとホガースは,何か問題が生じたときに,その解決策を講じた人を高く評価する傾向があるが,それよりも重要なのは,そのような問題が生じることを予め未然に防ぐような予防措置を講じた人の方を高く評価すべきだという。確かに,問題が起きてそれを解決したことは誰の目にも明らかであるが,予防措置の方は目につきにくく,軽視されてしまう。

 そして,結果の中でも失敗より成功を重視してしまうのも偏った傾向である。元プロ野球の野村監督は「勝ちに不思議の勝ちあり,負けに不思議の負けなし」と言ったが,負け,つまり失敗の原因は必ずあるから,それを次に生かさなければならない,という意味である。

経験の落とし穴(2)-経験の過大評価

 私たちは自分の経験を過大評価することが多い。自分が実際に経験したことだからそれが物事の本質を捉えているとか経験にまさる学習はないといった,経験を絶対視・過大視することもよくある。これが起こる原因の一つが「利用可能性バイアス」というバイアスである。

 利用可能性バイアスとは,ダニエル・カーネマンらが提唱したバイアスであり,脳裏に浮かびやすいことがらが実際に起こりやすいとか,重要であると思ってしまうことである。メディアの報道で見たり自分自身が体験したことは,印象に残りやすく実際よりも頻繁に生じると考える。たとえば,凶悪犯罪やあおり運転はメディアで取り上げられることが多いので,最近凶悪犯罪やあおり運転は増えていると思ってしまう。

 脳裏に浮かびやすいことの代表格は,自分が実際に体験・経験したことである。自分の経験なので印象に強く残っていることが多く,そのため,経験を基にして判断することがしばしば生じる。そこで,自分の経験を過大評価することになる。

経験の落とし穴(3)-確証バイアス

 経験によって何らかの意見や見解をもつようになることも多い。これこそ経験による学習である。経験による学習で得られたことは過大視してしまうのが人の性質であるが,ここでも落とし穴が待ち構えている。

 人には,自分の主張や意見を支持するような証拠や根拠だけを注目してしまうという性質がある。これを確証バイアスという。自分で実際に経験したことがものごとの本質を捉えてないこともあるし,できごとのごく一部だけを見ていて全体を見ていないということも少なくない。また前回見たように,経験したことを正しく覚えているとは限らないのだ。

 確証バイアスによって,経験から学んだことがらを支持するような証拠だけを見て,自分の意見に反する証拠には目を閉じてしまうのである。

処方箋-経験バイアスから逃れるために

 経験バイアスから完全に逃れることは不可能に近い。このバイアスに限らず一般にバイアスを免れるのは難しい。行動経済学の第一人者であるダニエル・カーネマンでさえ,「バイアスは克服できるか」とよく質問されるが,「あまり期待できない」と言っている(『ファスト&スロー』)ほどだ。

 ソイヤーとホガースは,経験バイアスの影響を軽減する方法を提唱している。彼らの意見を参考にしていくつかの改善策を考えてみたい。

 まず第1は,失敗事例の検証である。前述のように,失敗例から学ぶことは多いはずである。これには,失敗とは言えないけれども,その一歩手前であったという「ニアミス」を見逃さないことも含まれる。

 次に,問題が起きてからの解決策ではなく,問題が起こりそうだという時点でそれを防ぐ,予防策を追求することである。これは,結果よりもプロセスを重視することにもつながる。航空機事故の分野に「重大インシデント」という言葉がある。これは「重大な事故一歩手前の事態」のことであり,これを分析することで事故を予防しようという考え方である。

 三つ目として,あえて自身の主張に対する反対意見や反証を探すことを求めることである。前述のように,自分の意見を支持する見解ばかり求める確証バイアスに陥りがちだからである。逆の立場から検討することで,よりよい結論が得られる可能性が大きくなる。

経験に頼りすぎない

 「70年生きてきて今までこんなに水が増えた頃はなかった。だから今度も大丈夫と思った」とか「今まで津波を何回か経験したから,ここまでは水は来ないと思った」というのは,過去の経験から得た情報が将来も当てはまると思い込んでしまうことである。このように今での経験に当てはまらないことが生じるのが最近の自然災害の特徴である。気象庁も「過去に経験したことのないような大雨の恐れ」といった表現で注意を呼びかけるが,なかなかうまく伝わらないようだ。

極端な例を出せば,地球は丸いと多くの人は信じているだろうが,実際に地球は丸いと体感した人はごくわずかであろう。確かに大平原や大海原に行けば,水平線や地平線が曲がっていることが見られ,それによって地球は丸いと思うことはできる。しかし文字通り「地球は丸い」と感じるためには,宇宙から地球を眺めない限り不可能だ。地球は丸いという事実を経験的に知ることはほとんどの人には不可能なのである。経験だけに頼っていては,「地球は平らだ」という実感をもってしまうのは仕方ないのだ。自分の経験だけに頼らず,客観的事実や理論・統計などの知識を得ることが不可欠なのである。

 言うまでもなく,経験はすべてが良いことでもすべてが悪いことでもない。経験は多くの場合には有益な示唆が得られる良いことであるが,逆に経験が柔軟な思考の足かせとなって,間違った思い込みが生じることもあるのだ。私たちは誰でも自分の経験から逃れることができない。だからこそ,経験したことを鵜呑みにせずに,経験の持つ落とし穴にも自覚的になり,経験を実りあるものとするようにしたいものだ。

参考文献

Hogarth, Robin M. and Emre Soyer, 2020, The Myth of Experience, Public Affairs.

カーネマン,ダニエル『ファスト&スロー』早川書房

ソイヤー,エムレ,ロビンM.ホガース(飯野訳)2016,「経験は意思決定の敵となる」『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』2016年1月号