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SDGs

 ご承知のように,SDGs(Sustainable Development Goals: 持続可能な発展目標)は,政府,市民,企業にとって必ず取り組んでいかなければならない目標であり,2015年の国連総会で全加盟国によって合意された,国際的な取り組みである。日本では2016年に,総理大臣を本部長とする「SDGs推進本部」が設置され,行政,民間セクター,NPO・NGO等を含む幅広い当事者が取り組んでいる。

 SDGsには17の目標が定められており,社会,経済,自然環境に関わるものと全体的枠組みに分類される。これらの目標を実現するためには,個々の企業や個々人の努力がもちろん重要であるが,それに加えてさまざまな政策的対応が必要となる。その中でも,行動経済学や行動科学に基づく政策が有効であると考えられているが,特に以下で説明する「ナッジ」という手法には大きな期待が寄せられている。ナッジについては過去にこのブログで何回も取り上げたことがあるが,今回は少し詳しく見てみよう。

人を動かす

 SDGsに限らず,政策というものは人を動かすことを目的とする。環境保護のためには,ゴミの量を減らすとか化石エネルギーの使用を控えるなどの行動が必要であるが,これは今の人々の行動を変えることを意味する。ではどうしたら人々の行動を変えることができるのだろうか? これには大きく4つの方法が考えられる。

 まず第1に経済的インセンティブを用いる方法である。何らかの行動を促進しようとするならば,その行動によってお金が得られるようにすればよい。逆に,行動を抑制しようとするならば,罰金を課せばよい。日常でよく見られる方法である。第2に,強制や規制がある。法律やルールを定めることで特定の行動を起こさせたり,禁止したりする。第3に教育や説得がある。この方法は自発的行動を促すという大きな利点があるが,一方,効果を発揮するまでに時間がかかるという欠点がある。そして第4の方法が行動を誘導あるいは誘発することであり,このために行動経済学で発案されたナッジという手法が用いられる。

ナッジとは

 ナッジとは,「背中を押したり,肘で軽くつつく」といった意味であり,選択肢をうまく設計・配置したり,人の注意を特定の方向に向けさせることによって,人の背中を押すように,人々に適切な選択をさせることやその手法を指す。人の行動を変える手法の一つである。

 ナッジの例として,ロンドンで歩道の端に書いてある「右を見よ」というサインがある。これはアメリカやヨーロッパからやって来る,車の左側通行に慣れない旅行者に注意を促す手法である。右側通行になれた人は,道路を渡るときに車が来ないか確認するときにまず左方を見てしまうが,左から車が来ないと車道に一歩踏み出してしまい,右から来る車に轢かれかねない。そこでこのサインは,「まず最初に右を確認せよ」と指示するというナッジなのである。

 同様に,学校などによくあるカフェテリア方式の食堂で,利用者が取りやすい配列の最初の方にサラダなどの健康によい品を置くことで,利用者が無意識のうちに健康によい食べ物を取るようにすることができる。この配置の仕方がナッジである。シカゴの学校で試したところ,健康に良い食品を取りやすい場所に配置するだけで,健康食品を選ぶ人の割合が以前に比べて35%も増えたという。

ナッジの特徴

 ナッジは,行動経済学が基礎としている,人間は必ずしも理性的で合理的な意思決定を行なっているのではないという人間観に基づいている。もし合理的な人間であれば,歩道に書かれた矢印がなくても,安全に関して適切な判断をできるだろうし,カフェテリアで自分の健康に反する食べ物を選ぶこともないだろう。そのような合理的選択が場合によってはできないのが人間である。また,矢印があればそれが指す方を見るし,取りやすいところにある食べ物は手にするという,人のありがちな行動傾向をうまく利用しているのだ。前回取り上げた初期設定の場合には,人の慣性,損失回避などの性質が利用されているのであった。初期設定もナッジの有力な一種である。

ナッジの特徴は,選択の自由を認めることである。禁止や義務化と違って,あることをするかどうかは選択者の意志に任される。矢印に気がついてもそれを無視することもできるし,カフェテリアであえて健康によくなさそうな食品を選ぶこともできる。また,金銭的インセンティブを用いることもない。あくまで選択の自由を維持しつつ,望ましい行動を起こさせることができるのである。この意味でナッジは緩やかな行動誘導であり,その行動を積極的にしないという人の意思決定を妨げることはない。そこで,ナッジは「自由主義的パターナリズム」という特徴をもつと言われることがある。

ナッジの提案

 ナッジは,行動経済学者のリチャード・セイラーとキャス・サンスティーンが著書『実践行動経済学』の中で提唱した手法である。セイラーは,後にイギリスのキャメロン政権が「行動インサイト・チーム」を創始する時にアドバイザーとして活動し,ナッジを含む業績により2017年のノーベル経済学賞を受賞した。サンスティーンは法学者であるが,行動経済学や行動科学の成果を取り入れて,オバマ政権でも活躍した。

 同書の原題(Nudge: Improving Decisions about Health, Wealth, and Happiness)が示すように,ナッジという方法をうまく使うことで,人々の健康や財産,幸福に関する意思決定を改善することができる。前述のような身近な例ばかりでなく,セイラーは,アメリカでいかに人々に貯蓄をさせるかという問題に,このナッジの手法を適用することを提案した。その一つとしてアメリカで提供されている401(k)のような確定拠出年金制度がある。従来は加入希望者がさまざまな選択肢を検討して決定する必要があった。セイラーは,初期設定で全員に加入させ,希望しない者は加入しないこともできるよう提案した。その結果,加入率は49%から86%に跳ね上がったのである。

ナッジ・ユニットの設立

 ナッジを政策に生かすべく,最初に政府レベルで取り組んだのはイギリスのデヴィッド・キャメロン首相であり,2010年のことであった。キャメロン首相は行動経済学や行動科学の成果を政策に取り入れることを目的とした「行動インサイト・チーム」を創設したが,このチームはしばしば「ナッジ・ユニット」と呼ばれているように,ナッジを重要な政策手段と位置づけている。

 同様の行動科学の成果を政策に生かすための組織は,アメリカを初め,オーストラリア,シンガポール,オランダ,ドイツ,カナダ,サウジアラビア,インドなどの諸国に設けられている。わが国では,環境省の所管で「日本版ナッジ・ユニットBEST」が2017年に発足し,さまざまな検討が重ねられている

ナッジの種類

 ナッジは,矢印や食べ物の配置も当てはまるし,前回取り上げた初期設定もそうである。もちろん他にも多々あるが,よく用いられる重要なナッジをいくつか取り上げておこう。

  • 初期設定...前回取り上げたように,予め何かを設定しておくことで,それを選択させようとする。
  • 単純化・容易化...手続き方法や書類作成を簡単にすることで,より多くの人に申請や申し込みをしてもらう。
  • 社会規範・同調性...人は,他の多くの人がやっていることをすべきだと考えるので,それを利用して行動を誘導しようとする。
  • 情報開示...どんな選択肢があるのか,選択肢にどんなメリットがあるかといった情報を開示することで,選択を促そうとする。
  • わかりやすさ...グラフィックや図示などを用いて注意をひき,行動を促す。 
  • リマインダー...期日や約束の日時などを少し前に知らせることで行動を忘れないようにさせる。
  • 情報のフレーミング...フレーミングとは,表現の仕方を意味する。情報を適切にフレーミングすることによって,人に望ましい行動をとらせる。
  • よく使われるナッジとしては上のようなものがあるが,SDGsのためのナッジについては次回詳しく見ていこう。

参考文献

蟹江憲史, 2020, 『SDGs(持続可能な開発目標)』中公新書

日本版ナッジ・ユニットBEST, 2019, 『年次報告書(平成29・30年度)』

リチャード・セイラー,キャス・サンスティーン,『実践行動経済学』,日経BP社

Sunstein,Cass R., 2020, Behavioral Science and Public Policy, Cambridge U.P.

Soman,Dlip and Catherine Yeung(eds.), 2021, The Behaviorally Informed Organization,

U.Tronto P.