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 今年度のノーベル経済学賞を受賞したリチャード・セイラーの業績として、前回は「メンタル・アカウンティング」を取り上げたが、今回は、セイラーと共同研究者であるキャス・サンスティーンの発案になる「ナッジ」という手法を考えてみよう。サンスティーンは気鋭の法学者・法哲学者であり、オバマ政権のブレーンとしても活躍した。

 ナッジは二人の共著『実践行動経済学』(日経BP社)で展開された考え方である。同書の原題はNudge: Improving Decisions about Health, Wealth, and Happinessであり、ナッジという方法をうまく使うことで、人々の健康や財産、幸福に関する意思決定を改善するという意味である。


ナッジとは?

 ナッジとは、「背中を押したり、肘で軽くつつく」といった意味であり、選択肢をうまく設計・配置することによって、人の背中を押すように、人々に適切な選択をさせることやその手法を指す。

 ナッジの例として、ロンドンで道路交差点の端に書いてある「右を見よ」というサインがある。これはアメリカやヨーロッパから来る、車の左側通行に慣れない旅行者に注意を促す手段である。

 同様に、カフェテリアで利用者が取りやすい配列の最初の方にサラダなどの健康によい品を置くことで、人が無意識のうちに健康によい食べ物を取るようにする手法がある。シカゴの学校で試したところ、健康に良い食品を取りやすく配置するだけで、健康食品を選ぶ人の割合が以前に比べて35%も増えたという。


初期設定とナッジ

 上のような身近な例ばかりでなく、セイラーは、アメリカでいかに人々に貯蓄をさせるかという問題に、このナッジの手法を適用する。その一つとしてアメリカで提供されている401(k)のような確定拠出年金制度がある。

 従来は加入希望者がさまざまな選択肢を検討して決定する必要があった。セイラーは、初期設定で全員に加入させ、希望しない者は加入しないこともできるよう提案した。その結果、加入率は49%から86%に跳ね上がった。

 このように、初期設定や初期値をうまく設計することで、人々に望ましい選択を促すことができるというのは、ナッジの代表例である。人は、自分のものや地位や仕事や権利をいったん保有すると、なかなかそこから離れたり、手放したりできないものだ。自分のアイディアや好み、習慣についても同じことが言える。

 新しいことに変更するのは、今の状態を失うという恐れが伴う。この損失を回避したいがために現在の状態にこだわってしまうことを「現状維持バイアス」という。中でも、初期値から変えないという「初期値効果」は現状維持バイアスの一種だ。多くの人は、パソコンや家電製品などでさまざまな設定を初期状態のままにしておくだろうが、それは好例と言えるだろう。

 ヨーロッパには、市民の臓器提供希望者の割合が高い国と低い国がある。低い国(デンマーク4%,ドイツ12%,イギリス17%等)には冷たい人が多く、高い国(ベルギー,フランス,オーストリア等は90%以上)には温かい慈悲心を持つ人が多いというわけではない。単に、高い国では初期設定が臓器提供に「同意」で「非同意」を選ぶこともでき、低い国では初期設定が「非同意」で「同意」も選べるからに過ぎないと考えられる。多くの人は初期設定から変えないのである。

 わが国も初期設定は「非同意」であるため、臓器提供希望者は少ない。ナッジの考え方を利用して、フランスは今年、初期設定を「同意」に変更したし、イギリスは近々、初期設定を「同意」に変える計画であると伝えられている。


環境政策とナッジ

環境省は、本年12月から、ナッジを利用した環境対策の実証実験を始めるという(2017年11月25日付け朝日新聞)。その方法は、北海道ガスと東北電力など計5社が契約する世帯から30万世帯を選び、世帯ごとに電気やガスの使い方のデータや節約方法をまとめたレポートを送付するというものだ。

「使用量が平均より8%上回っている」や「2万円の出費増」といったデータを示すことにより、それを読んだ人は、心理的な影響を受けて実際に省エネ行動をとると期待される。実証実験では、「人は自分の家庭と同じような構成の家庭とを比較して、自分の家庭の行動を評価する」という心理的性向を利用しようと考えているようだ。

 
ナッジとマーケティング

 ところで、以上では公共政策に関わる選択に対して、ナッジという手法が有効であることを見てきたが、実はナッジはマーケティング手法としては目新しくはないどころか、きわめて多用されている。ただ、ナッジという名称や概念が使われてこなかっただけである。

 たとえば、限定品やタイムセールなどの方法は「今買わないとなくなってしまう」「買わないと損だ」という人の気持ちを利用して、購入を後押しするのである。売りたい商品の配置を工夫するとか、レジ横に小物を置くなどは小売業にとっては当たり前の手法である。

 それにもかかわらずセイラーとサンスティーンのナッジが評価されたのは、こういった方法は公共政策や経済政策の方法としては真剣に考えられてこなかったからである。


ナッジの誤用・悪用

 以上はナッジを活用した例であるが、ナッジの間違った使い方や意識的な悪用もある。たとえば、制度の名称も人がそれによって意思決定するという意味では、ナッジとなる。そこで、不適切な名称で誤解を与えるような制度はナッジの誤用といってもよいだろう。

 例として「奨学金」と「学資保険」が挙げられよう。「奨学金」という名前は「学を奨めるお金」と解釈でき、学費が給付されるか、無利子で貸与されるという文字どおりの「奨学金」が連想される。

 しかし実態は「学費ローン」であり、学費を借りた学生や親はしばしば長期にわたる有利子のローン返済に苦しむことになる。「学資保険」も実態は保険ではなく「学資の積み立て」に過ぎないことが多い。しかも、低利である。こういった人を惑わすナッジは不適切と言ってもいいだろう。

 悪用例もある。2014年ある球団の優勝セールの際に、ECポータルサイトにおいてある企業がアンカリング効果を利用した悪質な価格表示を行なった。通常の販売価格を不当に高く設定しているようにして、セール時の価格がきわめて割引率が高くてお買い得かのように見せたのである。

 これに対して消費者庁は不当な「二重価格表示」として当該サイトに警告を出した。これはアンカリング効果を利用した悪質なナッジの例と言える。

 効果的なナッジは、確かに人々や社会をより豊かでより幸福な方向に導く可能性を秘めている。しかし、悪質なナッジを使ったり、誤解を招く誘導を行なえば、いずれ人々からの信頼を失うことになるだろう。