前回はお金の魔力について見た。今回は貨幣錯覚という現象について考えてみよう。

貨幣錯覚とは

 標準的な経済学では、まず第一に、お金というのは物を買ったり価値を貯えたりするための道具であると考える。お金はあくまで、売買を仲介するために使ったり、金額を表わす単位として必要なのであって、お金そのものが何らかの効用や心理作用を生み出すわけではないというわけである。これを貨幣の「道具説」という。

 しかし、私たちがお金というものを単なる「道具」と捉えていない証拠はたくさんある。前回述べたお金のプライミング効果がその一例で、「貨幣の道具説」が揺らぐのがわかる。

 道具説では説明できない現象の1つが今回の「貨幣錯覚」である。貨幣錯覚とは、人々が金銭の価値について、実質値ではなく名目値で判断することである

 たとえば、名目的な給料が100万円から200万円に上がったとしても、物価も同じく2倍になってしまえば、実質的には購買力になんらの変化はなく、したがって購買行動も変わらないはずである。これが、標準的経済学が前提としている合理的な行動である。

 しかし実際には、名目給料が2倍になると、物価が2倍になったとしても、それ以上の需要増加が生じることが多い。貨幣錯覚はまさしく非合理的ということになる。

 行動経済学では、このような貨幣錯覚をフレーミング効果の一種として捉えている。たとえば、医者から「95%の確率で手術は成功します」と言われるときと、「5%の確率で失敗します」と言われるときでは、患者の決断が異なることがある。フレーミング効果とは、意思決定が本質的には同一であっても、表面的な表現法に左右されることであると言えよう。貨幣錯覚はまさにフレーミング効果の現われなのである。

 貨幣錯覚は、道具説では説明できない現象であることは明らかだろう。経済学の泰斗、J.M.ケインズは貨幣錯覚の重要性やその経済への影響について強調しているが、貨幣錯覚のような非合理的な行動は、標準的経済学からは排除されてしまったのである。



貨幣錯覚実験

 貨幣錯覚を行動経済学の枠組みで初めて考察したのは、行動経済学の大家ダニエル・カーネマンの共同研究者エイモス・トヴェルスキーらである。彼らは実験参加者に、まず次のような設定を読んでもらった。


 A, B, Cの3人がそれぞれ異なる時期に20万ドルで家を買った。3人ともその家を1年後に売ったが、経済状況が異なっていたため、結果も異なっていた。それぞれの状況は次の通りである。

A:経済は25%のデフレ状態であった。
  Aの売値は15万4千ドル、つまり買値より23%安かった。

B:経済はデフレでもインフレでもなく物価は安定していた。
  Bの売値は19万8千ドル、つまり買値より1%安かった。

C:経済は25%のインフレ状態であった。
  Cの売値は24万6千ドル、つまり買値より23%高かった。

 この設定を読んだ後、実験参加者に、家の売買取引として成功したと言えるのは3人のうちの誰かを、1位から3位まで順位付けしてもらった。

 その結果は、下の表の通りである。表の上2行は、取引後の買値と売値の名目値の変化と実質値の変化が示してある。下3行は、実験参加者が何位と見なしたかの割合である。


 この表では、Cが1位,Bが2位,Aが3位という順位をつけた参加者が多かったことがわかる。ところが実質的価値はまったく逆である。実験参加者は、お金の実質的価値ではなく名目値によって判断していることがわかる。

「必需品の値段が上がると予想されているが、それをなるべく早く買っておこうと思うか」というような質問をすると、多くの人は「はい」と答える。この質問は収入の変化について何も言ってないから、実質値がどう変化するのかはわからない。にもかかわらず「はい」と答えてしまうということは、名目値に反応していることになる。

 アメリカにはこれを巧みに利用したコマーシャルがあった。「車を含むすべての商品の値段が上がると予想されています。そこで、車を買うなら今がチャンスです」。


政策的意味

 貨幣錯覚は、お金の道具説を否定するだけでなく、経済学や経済政策にとっても大きな意味を持つ。

 たとえば,2000年以降の日本ではデフレ状況が続いたが、目標を定めた上で、政策的にインフレを誘導すべきだという議論(インフレ・ターゲット論)があった。現行アベノミクスも同様に、少しのインフレと賃金上昇を目論んでいる。インフレ・ターゲットは結局実施されなかったが、これらの政策は、貨幣錯覚論から見るときわめて正しいと言える。

 しかし、このような政策を論ずるときに、貨幣錯覚に関するものはほとんどなかった。


脳科学で見た貨幣錯覚

 貨幣錯覚が現実の経済において発生したことを確認した研究はまだないが、意外な分野の研究によって確認されている。それは脳科学であり、貨幣錯覚が脳のどの部分で行なわれるのかが確かめられているのである。

ドイツの脳科学者や行動経済学者が、貨幣錯覚が脳のどの部分で引き起こされるのかをfMRIという脳画像測定装置を用いて調べた実験がある。

 この実験は、参加者ひとりにつき2つの条件で実験を行い、その内容を比較するものだ。参加者は、コンピュータ画面上に現れる点がいくつ以上であるかを推測するなどの一連の課題を解き、その成績に応じて報酬を受けとり、その後、受けとった報酬で商品の写真と価格が示されたカタログの中から、商品を選んで買うことができるようになっていた。

 参加者の受け取る報酬と商品の価格にも、2通りの条件が設定された。1つの条件は、もう一方の条件よりも、報酬額が1.5倍であり、同時に商品化にも1.5倍のコストが必要になるよう決められていた。つまり、もらえる金額も支払う金額も、ともに1.5倍上昇する。2つの条件下で行われる実験で得られるのは実質的にはどちらも同一である、というわけだ。したがって、どちらの条件でも参加者の感じる「報酬を受けとる喜び」は変わらないはずである。

 前頭葉のやや内側部分に前頭前腹内側皮質(ぜんとうぜんふくないそくひしつ)という部位がある。ここは、食べ物やお金などの報酬によって活性化することが知られている。つまりプラスのことが得られれば血流が増えて活動が盛んになるのだ。

 測定すると、この部位が、名目値が大きいお金を受けとるときほどより活性化したのである。お金の実質値、つまりその金額でどれだけ買えるかではなくて、見かけ上、大きな値が得られるほど活性化するということが示されたわけである。貨幣錯覚は事実存在するということになる。


貨幣錯覚の原因

 貨幣錯覚はなぜ生じるのだろうか。人間がよく行う直感的判断が原因だと考えられる。100万円から120万円への昇給のような名目値の変化は目につきやすく、わかりやすいため直感的に惹かれる。同時に物価が30%上昇したら実質的には減給であるけれども、それは計算してみないとわからない。

 人がしばしばそのような熟慮的な判断を行なわずに、直感的判断をしてしまうことは行動経済学の主要なテーマのひとつである。