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 前回に引き続き,「職場におけるナッジ」を取り上げよう。前回述べたように,ナッジの要諦は,大がかりな設計や大きな制度変更を目指す必要はなく,「小さな後押しが,大きな差異をもたらす」ことである。これがナッジの合言葉である。

選択アーキテクチャ

 選択肢をどのように作って提示するかを,セイラーとサンスティーンは「選択アーキテクチャ」と呼んだ。「アーキテクチャ」という言葉が表わすように,選択肢をいかに提示するかは建築のようなものだ。窓や階段の配置や構造が暮らし方や住み易さを規定するように,選択肢をどのように提示するのか,選択肢の数,提示の順序などが選択者に大きな影響を及ぼす。

選択アーキテクト

 企業において,選択アーキテクチャをいかに設計するのかは,企業の経営者に委ねられるのが当然であろう。つまり経営者は選択アーキテクチャを責任を持って設計することになる。そこで経営者は,選択アーキテクトと呼ばれる。選択アーキテクトは,選択アーキテクチャの責任者なのである。

 もちろん,選択アーキテクチャの細かな部分は部下やそれ専門の部署に任せてよい。たとえば,イギリスでは,2010年にキャメロン政権の下で,政府の一部門として「行動洞察チーム(通称ナッジ・ユニット)」が発足された(その後民営化)。あるいはチーフ・ビヘイビアラル・オフィサー(CBO)を置き,その人に一任してもよい。AIGやマイクロソフトなどの米国の企業にはCBOが置かれ,選択アーキテクチャの計画や実行,評価に携わっている。イギリスのチームがナッジ・ユニットと呼ばれていることから分かるように,ナッジは行動変容を促すための主要な手法になっている。

ナッジの基本

 企業がナッジを有効に活用するためにまず必要なことは,ナッジを使って何を目指すのか,目的を明確にすることである。最終的には,社員のモチベーションを高めることによってコミットメントやエンゲージメント向上を狙い,企業の業績向上を目指すとしても,そのためには小さなナッジが役立つ。社員どおしの協働や複数部署の情報共有の促進を図ったり,社員の健康増進を目指すこともできる。また最近,企業の不祥事がしばしば話題になるが,従業員の倫理的行動を促進するためにもナッジは利用できる。

 ナッジを行なうためには,人のシステム1がもっている性質をうまく利用して,行為のモチベーションを高めることが肝要である。たとえば,人は最初に決められた初期設定(デフォルト)につい固執するといった性質,また,周りの人の行動に合わせるという同調性を利用することができる。自分の属する集団の行動規範に従うことも,人のもつ自然の性質である。自分の行為を誉められたり,感謝されたりすることも望んでおり,行為のモチベーションとなりうる。

 ナッジのための手段としては,人を取り巻いている物理的環境,職場でいえば,設備や施設をうまく利用したり,スマホやパソコンを用いた「デジタル・ナッジ」という方法もある。

 いずれにせよナッジを用いるときの原則として,1.働く人第一 2.強制しない 3.金銭をからめない,ことが肝要である。

実験という視点

 また実験という視点も大事である。さまざまな方法を試してみて,もっとも効果のあったものを採用するのがよい。そのためには,何か1つを試みてうまくいかなかったからといって,実施者を責めたり,ナッジという手法そのものを否定するのではなく,データを取って分析し,改善や他の方法を試してみようという柔軟性が重要である。

ナッジの例いろいろ

 実際に企業が実施して,効果があったナッジの例をいくつか見ていこう。

・イギリスの航空会社ヴァージン・アトランティックは,燃費節減と炭酸ガス排出量削減のために,パイロットに燃料消費を抑えてもらう必要があった。それを単にパイロットに伝えても大して効果はなかった。そこで,燃料節約のためにどんな方法が適切であるかをいくつか試した。そのために実験をすることにした。335人のパイロットを4つのグループに分けた。コントロール群には,燃料削減の研究の一環として,ここのパイロットの燃料使用状況がモニターされているということを手紙で伝えた。他の3グループには,パイロット個人が実験した月間にどれだけの燃料を使ったのかを個人的に伝える,満たされるべき燃料消費量の目標,燃料消費が削減できたら慈善団体に寄付をすると伝える,といったナッジを組み合わせて実施した。

 その結果,すべてのグループで燃料削減効果はあったが,全体として,8ヶ月間の実験の結果,537万ドルの費用削減と21500トンの炭酸ガス排出の削減という成果が得られた。4つすべての方法がナッジとして効果を発揮したのである。

 次のような例もある。

・よく知られているが,会議を立ったまま行なうと時間短縮につながる。ある研究によると,立席会議は,決定の質を落とさずに25%の時間節約ができるという。

・あるソフトウェア企業は,勤務時間のシフトが変わるときに,遅刻や欠勤を防ぐために,事前にリマインダーのメールを送った。その結果,遅刻は21%,欠勤は16%減少した。

・別のソフトウェア会社では,1時間ごとに数分間,従業員とそのペットの画像をディスプレイに流した。それによって,ペットを媒介として従業員どうしの会話や連帯感が生まれた。

・「働きたい会社」の上位にランクされている靴の通販会社ザッポス社は,キュービクルの固定化を行なった。キュービクルとは,自分の机を衝立で囲うようにしてできる仕事用の空間のことである。どのキュービクルを誰が使うのかは決めずに,朝先着順で決めるのがよいと言われることが多かったが,ザッポスでは逆に誰がどのキュービクルを使うのかを決めて固定化した。キュービクルの自由化は,机は単にコンピュータを使う場所としか認識できない。同社は,固定化することだけでなく,自由に使うことができるようにした。その結果,従業員のモチベーションは上がったという。キュービクルが自分の城という感覚になれば,モチベーションが上がるのも当然である。

ナッジを生かそう

 この例のようなナッジは,「ナッジ」などという言葉は知らなくても,既に取り組んでいる企業も多いだろう。「大したアイディアではないな」と思われるかもしれない。それでいいのである。社長や上司が,モチベーションを持とうとか,コミュニケーションを図ろうとか,費用をなるべく抑えようとか,言葉だけで社員に伝えている企業は多いだろう。しかしそれらが効果が少ないことを実感している人も多いに違いない。ここで挙げたような「小さなきっかけ」が社員の行動に大きな変化をもたらしうるのである。使わない手はない。次回もナッジを取り上げる。


●参考文献・資料

・Ariely,Dan, 2016, Payoff: The Hidden Logic That Shapes Our Motivation, TED Books.

・Dhar,Julia, Allison Bailey, Stephanie Mingardon, and Jennifer Tankersley, 2017-05-17, The Persuasive Power of the Digital Nudge 

https://www.bcg.com/ja-jp/publications/2017/people-organization-operations-persuasive-power-digital-nudge.aspx

・How nudging can drive higher workplace efficiency

https://www.servicefutures.com/nudging-can-drive-higher-workplace-efficiency

・Miller,Rex, 2018, The Healthy Workplace Nudge, Wiley.