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前回に引き続き、経済や社会において信頼が持つ役割や重要性について考えてみよう。まず、信頼とは何か、少し形式的な定義を見てみよう。

「信頼」の定義「AがBを信頼するとは、Bが表明したこと、または社会的規範を満たしていると考えられることをBが行なうと、Aが期待すること」と定義できる。

(荒井一博著『信頼と自由』勁草書房2006を参考に一部改変した)。

 信頼するだけでなく、「信頼に応える」方も重要だ。同様に定義してみよう。

「信頼に応える」の定義:「Bが信頼に応えるとは、このようなAの期待に沿う行動をBがすること」である。(前出、荒井氏を参考にした)。

 前回の信頼ゲームでのAは、Bが言明したわけではないが、社会規範を満たす行動をするだろうと期待している。つまり、受け取った金額からいくらかを自分に戻すだろうと期待して、投資したわけだ。すなわちAはBを信頼して投資した。Bは、このようなAの信頼に応えて、きちんと戻すことを選んだのである。

"信頼ゲーム"は企業や政府とも行われている

 このような信頼は、個人に限定する必要はない。企業や政府を信頼するということも、同様に考えることができる。また、信頼されたり、信頼に応えるのは、特定の個人とは限らない。電車がちゃんと動くのも、犯罪を警察に届ければ何とかなるのも、裁判がきちんと行なわれるのも、運転手個人や、警察官・裁判官個人が信頼できるからというより、制度・システムが信頼できるからなのである。

 つまり、特定の個人が信頼できるどうかではなく、制度・システムが信頼できるとは、だれが担当しても信頼できるということである。信頼できる社会とは、個人の信頼に依ることなく、システムや制度が信頼できるということである。

では、職場での"信頼ゲーム"は...?

 たいていの仕事は、自由裁量の余地が大いにある。そこでどんな場合にもほぼ適切な対処ができるという信頼がなければ仕事は任せられない。つまり、怠けたり、必要な行動をとらなかったり、やるべきことをやらなかったりする人に仕事をさせるわけにはいかず、もしそうしてしまうと組織が正常に機能しなくなってしまうだろう。

 そういった事態が生じうると雇用側が考えれば、「働く人はこの場合にはこれをする」ということを決めた事細かいマニュアル(作業手順)と、それに基づく契約が必要となる。しかし、すべての場合をマニュアルや契約で考えることはできない。記すべき条件が多すぎて列挙することはできないし、契約がきちんと守られているかどうかを監視することもできないからである。こういったことにはコストがかかりすぎる。この意味で、完全な契約は不可能である。

 したがって、組織や企業を運営するためには、働く人にある程度は仕事を任せなければならない。その際には、そこで働く人が信頼できることが必須の条件となる。

 他人との協力関係を築くにも信頼が重要なのは言うまでもない。当然、職場においても、仕事をきちんとせず、隙があれば怠けたり人の貢献にただ乗りをするような人、すなわち信頼のおけない人との間には協力関係は生まれないだろう。

社会におけるすべての事柄が「信頼」で成り立っている

 そもそも、信頼がないと貨幣は機能しない。お金というのは不思議な存在だ。単なる金属の丸い板や一枚の紙片に過ぎない物質がお金として機能するのは、誰もが、この金属や紙片が今も将来もお金としての機能を果たすという期待、あるいは信頼があるからである。

 お金を介した取引は、完全に信頼の上に成立しているのである。お金がお金としての価値があると、誰もが考える、すなわちお金がお金の役割をすることを信頼しているからこそ、お金はお金として機能するのである。

明日の貨幣価値がどうなるのか、はたしてきちんと通用するのかどうかわからない場合には、誰もお金を受け取らない、つまり誰もお金を使えないことになる。

 たとえば超インフレの時には、誰もお金を持ちたがらない。2008年にインフレ率が5千億パーセント(!)にもなったジンバブエでは、2013年に1米ドル=3京5千兆ジンバブエドルという、想像を絶することになった。こうなるともはやジンバブエドル紙幣は通貨として機能せず、観光客のお土産用になっているそうだ。今まではこんな大きな数字は「天文学的数字」と言われていたが、これからは、「経済学的数字」と言われるようになるかも知れない。

 経済ばかりでなく、日常生活そのものも信頼によって成り立っている。
安心して電車に乗れるし、道を歩ける。見知らぬ人と接近できる。日本では、横断歩道を渡るとき、たいていの人は目の前の信号しか見ていない。目の前の信号が緑であれば、交差する信号は必ず赤であり、車はそれに従って止まると信じている、つまり車の運転者を信頼しているのである。

 駅に行って自動販売機で切符を買うのも「信頼」に基づいているし、時間通りに電車が来ると信じて待つのも「信頼」である。電車に乗って商談に行けば、相手もだいたい待ち合わせ時間に来ていて、そこから商売の話がはじまる。こうして滞りなく物事が進むことが、経済の発展や安定にどれだけ寄与しているかがわかるだろう。

 私たちにとっては当たり前であるが、改めて考えるとその当たり前のことがとても重要だということが分かる。こうしたことが当たり前ではない国もたくさんあるのだ。

 たとえば、歩行者も車も平気で信号を無視するようなところもある。車が来ても平気で道路を渡る人がいて、車を運転する側も、それが当然だと思っているから信号を無視する。道路を歩いて横断するためには周囲に注意を払い、何度も左右を確認しなければならない。時間もかかるし、精神的にも疲れる。

 以上をまとめると、

  • 信頼の少ない社会で正常な取引をするには、膨大なコストがかかる
  • 信頼の少ない社会では協力関係の維持が難しい

 ということがわかる。

「信頼」は経済・社会の発展に貢献する

 経済に限らず社会においても、監視・裁判・取り締まりなどのコストがかかる。社会学者のニコラス・ルーマンは、「信頼とは、社会的な複雑性の縮減メカニズム」と言ったが、信頼があれば、そうでない場合に必要なさまざまな複雑なシステムや制度が不要になるということである。

 信頼があればその金銭的・時間的・心理的コストを他の有効な使い道に回すことができる。教育・福祉・生産など社会にとって必要なことに投資することができるのである。

 低開発国は信頼が低いと言われ、信頼が低いと経済は発展しないことが、いろいろな調査やデータで示されている。ただ、上記の定義からわかるように、信頼は、国・文化によって受け取り方がかなり異なる可能性がある。異なる国同士の信頼度を比較した調査もあるが、解釈は慎重にしなければならない。

 また、なぜある国では信頼が低くて、他の国では高いのかという根本原因の解明は未解決である。信頼自体は文化や宗教の影響で形成されたと考えられるが、その辺の解明もまだなされていない。